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- 払川村(近世)とは
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払川村(近世) 江戸期~明治9年の村名出羽国由利【ゆり】郡のうち権現山の南麓,芋【いも】川下流の氾濫原に位置し,現在の三川字払川に当たるもと川大内【かわおおうち】郷のうち慶長7年~元和8年最上氏領(岩屋能登守代官支配),同8年本多正純領,同9年から亀田藩領慶長17年進藤但馬守某日野備中守某連署状や,同年という「由利郡中慶長年中比見出検地帳」に岩屋領払川村と見えるのが初見村高は寛永2年「油利之内修理大夫様御知行検地牒免定之目録写」に127石余(うち納米72石余・免5.7),寛永2年「御本帳高」には,小笠原能登守領として123石余とある「正保国絵図」では当高46石余とあるが,正保3年「高目録」には,岩城但馬守領分として146石余(うち田方144石余・畑方1石余)とある元禄15年「郷村高辻帳」や「元禄7郡絵図」127石余,「天保郷帳」128石余,慶応3年127石余(郷土誌)村鎮守は不動尊創立は平城天皇の大同年中と伝え,現社殿は元治元年の建立といい,明治の神仏分離の際神明社となる(郷土誌)明治9年川口村・増川村と合併し三川【さんかわ】村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
払川村(近世) 江戸期~明治8年の村名豊後国速見【はやみ】郡八坂郷のうち船部【ふねべ】川上流域に位置する文禄4年前田玄以領,慶長元年杉原長房領,同4年中津(のち小倉)藩細川領,寛永9年木付(のち杵築)藩小笠原領,正保2年から同藩松平領村高は元和8年の「小倉藩人畜改帳」では36石余,「見稲簿」25石余,「天保郷帳」30石余,「旧高旧領」31石余慶長16年の「人畜改帳」では木付上庄に属し,家数2・人数4・本百姓1文久3年の田2町2反・畑2町,5歳以上の人数8(工藤家文書)細川領時代森永手永,延宝7年八坂手永,文化元年八坂郷船部組に属し,船部村の阿部庄屋の支配を受けた西国東郡境である波多方峠に近く,山の斜面を開発して田畑とし,家が山間に点在する村である米作と七島藺を栽培,農間余業に七島表(畳表)を織った明治4年大分県に所属同8年船部村に合併現在の杵築市大字船部のうち... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
払川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
払川村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
払川村(近世) 江戸期~明治10年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」